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令和4年度 活動計画

開催日集合時間内容プログラム
4月24日(日)10:00総会 
5月27日(金)9:30志木のまちご案内埋蔵文化財保管センターと城山地区発掘現場の見学
6月26日(日)9:30お宝発見講座①野火止用水の支流と水車
(大原地区)
7月30日(土)9:30お宝発見講座②野火止用水の支流と水車
(大塚・柏町地区)
9月25日(日)13:30お宝発見講座③水と暮らす工夫
(宗岡地区の利水と治水)
10月30日(日)9:30お宝発見講座④志木ニュータウン周辺を歩こう
11月27日(日)9:30お宝発見講座⑤市場の街並と野火止用水跡
12月18日(日)13:30市内研修志木古木双六をめぐる
2月26日(日)9:30市外研修文京区
3月18日(土)9:30志木のまちご案内志木の文化を知ろう
(志木駅前の切り絵と彫刻)

※会員募集中※ 入会ご希望の方は、当サイトの「お問い合わせ」からメッセージを送信いただくか、行事参加時にお声かけ下さい。(年会費=2,400円 入会金無し)

《令和4年度 活動報告》

令和4年 12月18日(日)
◆市内研修◆
志木古木双六をめぐる〜20年の変遷〜

案内人の会の活動計画に、市内研修・市外研修があります。
これは、みなさんにアウトプット(案内)していくためには、インプット(学習)する必要があると考えているからです。
というわけで、12/18志木駅東口から今回の市内研修が始まりました。【写真①】

①志木駅東口
 
 2003(平成15年)年3月に「志木市環境教育推進員の集い」が、「志木古木切り絵双六」を作成しました。これに先立ち、「志木市内巨木古木珍木一覧」という番付表も作成しています。
この珍木の一つが、今回スタートの「河岸の白梅」です。【写真②】

②河岸の白梅
 
その昔、引又河岸井下田回漕店の庭にあったものが、今は駅前に移植され、スターバックスコーヒーの隣の井下田家の庭に息づいています。
梅の香りが漂う頃、また訪れたいものです。
 
 次は、旧道に進み「石屋のケヤキ」。
残念ながら石材店の改築で伐採され、マンションが建っていました。【写真③】

③石屋さん跡
 
後で、聞いた話ですが切ったケヤキの中は空洞があり、危険な状態だったということです。
 
 続いて、「小ハケのケヤキ」。【写真④】

④小ハケのケヤキの切り株
 
これは昨年確認したのですが、すでに切り株です。東前頭六枚目でした。
そして、「中道不動尊のキササゲ」「箒のようなケヤキ」「空中で合体のカシ」「高野様方ケヤキ」「火傷の柿(ぜんじ丸)」「糀屋のホウノキ」と柏町を歩いて進んだのですが、すべてもう存在していませんでした。
 
 やっと、巨木に会えたのは東前頭筆頭「田中家のクスノキ」でした。【写真⑤】

⑤田中家のクスノキ
 
志木三小向かいのマンションの裏にある老人ホームにその姿はあります。
「柏城大堀の説明版」からもよく見えます。堂々と今も健在でした。
 
 次に、「チョウショウインハタザクラ」【写真⑥】

⑥チョウショウインハタザクラ
 
これは、もちろん頑張っています。春にはまた花を咲かせてくれるでしょう。しかし、長勝院を語る時に登場する「秩父日記」にも見える「ビャクシン」の木は、近年切られてしまったようで切り株でした。【写真⑦】

⑦長勝院のビャクシンの切り株
 
 そして、舘の氷川神社に着いたのですが、ここも番付に載る「ムクノキ」「ケヤキ」「カヤ」すべて切り株でした。
坂之上田村麻呂伝説ゆかりのムクノキも、ヒサカキに隠れるように切り株となっていました。【写真⑧】

⑧舘の氷川神社のムクノキの切り株
 
 こうして、寶幢寺に到着。ここの「イチョウ」「タラヨウ」「ケヤキ」「ヒマラヤスギ」「ムクノキ」「ムクロジ」すべて、健在でした。番付、西横綱「クスノキ」(中宗岡)はすでにないそうですので、今や一人横綱である「イチョウ」には、これからも頑張ってほしいものです。【写真⑨⑩】
  
⑨⑩横綱大イチョウ
 
寶幢寺の樹木管理には、頭が下がります。感謝です。
 
 こうして、20年という月日が流れ、多くの樹木が姿を消してしまったことが、今回の研修でわかりました。
前述のように、古木は中が空洞化して倒れる危険があります。このため、樹木の保存は大きな問題なのだということを改めて実感します。
世の中が移り変わる中で、私たち案内人の会は歴史と共に自然も案内できるように努めていきたいと考えます。
[報告・写真=高橋 豊]

 
 

令和4年 11月27日(日)
◆お宝発見講座 ⑤◆
市場の街並と野火止用水跡

 この大きな鴨居はなんだ!
 11月下旬の休日、第5回お宝発見講座がありました。
 江戸時代の引又・志木の繁栄を、野火止用水が果たした役割を知ることがテーマでした。
 最初に向かったのは、いろは遊学館3階にある、江戸末期に起こった武州一揆の刀傷が残るヒノキ材の鴨居でした。
 名栗村(現飯能市)で起こった農民一揆が、遠く離れた引又宿まで広がり、豪商家屋が打ち壊しに遭った、その歴史的な出来事を残す物として保存されていました。ヒノキ材の幅広と長さには驚きましたし、財力があった大きな家の鴨居なのではと説明を受けました。

1.刀傷の残る鴨居
 
 古道を歩き、市場に向かう
 遊学館を出て、古道・江戸道を歩き、商工会前のイロハガッパ「カッピー」を見ながら重厚な蔵の鬼瓦を見て旧町名横町・寿町へも足を伸ばし、敷島神社の総代で地元に住む綱島さんから、当時の貴重な話を聞きました。

2.町の様子を聞く
 
 映画館や珈琲店があった当時のハイカラな町の様子を記した手作り地図を頂きました。
 また、江戸時代に二七の市がたった「市場」の繁栄状況を、当時の絵図写しや紙芝居を見ながら説明を聞きました。引又は近隣地域経済の中心であったこと、志木街道を利用して遠くは山梨県まで物流があったことには驚きでした。
 映画館の幟が映った写真にも感動でしたし、移動して巡った刀傷の残る旧西川家のくぐり門にも歴史を感じました。

3.旧西川家のくぐり門
 
 野火止用水最下流の様子を伝える「いろは樋」のジオラマも鑑賞しました。
 
 明治時代の用水は
 野火止用水を宗岡地区の灌漑用水にしようと新河岸川面から4.1m、白井武左衛門等が48個の木製樋を繋いで長さ120mの掛樋が敷設され、いろは48文字になぞらえて「いろは樋」と呼んで大事にしたそうです。
 洪水等で破壊されたいろは樋の再建が難しくなってきた明治時代、鉄管を用いて川底を潜らせ通水した話も聞けました。
 その証となるレンガ作りの大枡も巡りました。産業遺跡となっている鉄管はベルギー製とか、明治時代の東京市のマークがついていました。
 どのように鉄管を調達したのか、当時の苦労も知れたし、重工業の歴史を知るなど新しい発見ができて楽しいお宝発見講座になりました。
 参加された皆さん、お疲れ様でした。
[報告・写真=吉田善二]
 
 

令和4年 10月30日(日)
◆お宝発見講座 ④◆
志木ニュータウン周辺を歩こう

 秋晴れの日曜日、柳瀬川駅西口広場で会長の挨拶を受けてお宝発見講座が始まりました。
「ぺあも〜る商店街」を闊歩して志木四小に向かい、正門前で樹木・マロニエの起源と志木ニュータウンの歴史を聞きました。

街の歴史を聞く
 
マロニエの実は栗に似ていて、栗はフランス語でマロン。マロンが転化してマロニエになったとか、ネット検索が必要でしょうか。
「マロニエ通り」の完成後、1980年に四小ができたので、この正門だけが道路に面しているそうです。
近くの志木二小は1968年に、二中は1973年に開校し、志木ニュータウンは17年間の歳月をかけて1979年に完成して住民入居が始まり、鹿島建設社史では「わが国最大規模の住宅団地」となっているそうです。
 
大塚大六天と杉の木の祟り
 次に向かったのは大塚大六天社。
ここに祀られているのは欲界を支配する最強最高位が第六天で、魔王と呼ばれるインドの神とのこと。
大六天とも記され、志木には9つの社があるそうです。
お参りして小さな社の扉を開けて中を拝見すると、刻まれた文字が読めない古い石版が安置されていました。

大六天の扉を開けてみると
 
江戸時代の昔、この社地には杉の大木が茂っていて、差配人が木挽きを雇って伐採させると、途中で震えと高熱が出たとか。
その後に関わった僧侶も気絶するなど、杉の木の怨霊にまつわる祟り伝説があるそうです。
 
鎌倉街道に至る羽根倉道とは
 サラリーマン坂を登った先の木立の中で、この地には羽根倉道があったこと。
鎌倉街道「上つ道」の所沢から上宗岡〜与野〜大宮に至り「中つ道」に合流する鎌倉街道の話を聞きました。

鎌倉街道の歴史を聞く
 
質問がたくさん出されて予定時間がオーバー。参加者の知識欲に圧倒されました。
ここ大塚地区周辺は台地の突端にあり、崖が連なる地形でもあり、平地に接するところに湧水があることを地元の方が描いた絵画で紹介されました。
瀬戸の湧水と命名されていて神秘的な佇まいに心が癒されました。
 
町名「館」の復活
 次に訪れたのは大塚の神明神社でした。
鳥居の説明と1972年当時、住居名「幸町・柏町」が制定されたこと、由緒ある地名「舘」への町名変更が持ち上がった話も聞けました。
志木ニュータウンができ、旧地名「舘」が復活した話は歴史のお宝発見でした。
駅ができる前に拓けた街並みを散策し、東上線柳瀬川橋梁の下を潜り抜けた先の河川敷にて、1914年に敷設された鉄道の話と次回の講座予告等を受けて現地解散となりました。

鉄橋は昔のまま
 
参加された皆さんお疲れ様でした。また来月お会いしましょう!
[報告・写真=吉田善二]
 
 

令和4年 10月15日(土)・16日(日)
◆第20回 いろはふれあい祭りに参加しました◆
紙芝居3題と展示

 10/15、16といろは遊学館において、いろはふれあい祭りが行われました。
志木のまち案内人の会は、広報しきに連載している「歴史さんぽ」と「おしょうにたすけられたかっぱ」の紙芝居を展示しました。

展示のようす
 
 また、16日には紙芝居を上演しました。「長勝院のチョッピラリン」「おしょうにたすけられたかっぱ」「田子山富士物語」の三本立てを、10時、10時40分、11時20分の3回行い、合計で62名の参加と盛況でした。

紙芝居の上演
 
 参加いただいたみなさま、ありがとうございました。今回見逃した方も、また、こういう機会がありましたら、ぜひご覧ください。
[報告・写真=鈴木民雄]
 
 

令和4年 9月25日(土)
◆お宝発見講座 ③◆
水と暮らす工夫(宗岡地区の利水と治水)

水と暮らす工夫を学ぼう
 台風一過のちょっと蒸し暑い日曜日、リニューアルされた村山快哉堂前から宗岡巡りが始まりました。
 会長の挨拶を受けた後、案内人から武蔵野台地の端にある志木市で、柳瀬川と新河岸川に挟まれた低地で、水と暮らす宗岡の先人たちの工夫を学ぼうと地形学的説明で始まりました。
 
三代の堤防が見られるのは珍しい
 新河岸川左岸のパークセンター前では、河川景観を見渡しながら江戸、昭和、平成の三代に亘って築かれた堤防の話を聞きました。
 蛇行が一番大きかった江戸時代の堤防は幅が広く一番外側に残り、一番内側の堤防は洪水を防ぐため直線化した昭和時代のもの、その中間に築かれた堤防が平成のものだそうです。

三代の堤防を見る
 
 新しい堤防が作られれば古いものを壊してしいますが、壊されずに残った志木の堤防はとても珍しいものだそうです。
 
河川改修と斎藤祐美翁の話
 ポケットパークでは、志木から宗岡へ通水した歴史的産業遺産である、川底の下に敷設した鉄管などを見学しました。

ポケットパークにて
 
 また、明治43年の大洪水を契機に、新河岸川の洪水をなくすことに奔走した斎藤祐美翁の話を聞きました。洪水を防ぐ努力と野火止用水の歴史を知るとともに、全てを堤で囲まれた宗岡地区では、生活排水が不可欠だったことをレンガ作りの北美圦樋で知りました。
 
宗岡地区の水と暮らす工夫は
 水塚の構造を知ろうと市之瀬家水塚を訪れました。

市之瀬家の水塚
 
 蔵の二階まで登って洪水との攻防の姿を見せてもらいました。
 次に向かった宗岡浄水場では、現在の生活水供給内容や浄水場の壁に記された歴代洪水水位と現在の堤防の高さの説明を聞き、水との闘いが今でも継続していることを実感しました。
 排水路に蓋をかけた「せせらぎの小道」側道を歩き、ゴルフ場脇の志村家水塚を眺めて北上し、佃堤に向かいました。
 
江戸時代、訴訟があった佃堤
 志木と富士見の境に築かれた佃堤は、江戸時代に堤の高さを争う訴訟があったことを聞いてびっくりしました。
 その近くの水村家水塚にも訪れ、椅子に座って水塚の機能を知りましたし、洪水時に使った舟や鍵を落とした苦労話も聞けました。

水塚機能の説明
 
 水塚の外周を巡って民家脇を抜け、蓮田通りの水塚を遠望し、川魚料理店脇の空き地で現地解散となりました。
参加された皆さんお疲れ様でした。次回の講座でまたお会いしましょう!
[報告=高橋豊/写真=吉田善二]
 
 

令和4年 7月30日(土)
◆お宝発見講座 ②◆
野火止用水の支流と水車(大塚・柏町地区)

野火止用水の支流を探る第二弾、今回は大塚(幸町)・柏町方面です。
出発は志木駅東口、ここからマルイの前を通って東上線の下をくぐるトンネル入り口付近に移動します。
このあたりに、出口(村山)水車がありました。トンネルをくぐったところの交差点、ここが志木の本町を流れる本流と支流に分かれる分岐点です。

支流の痕跡発見
 
支流に沿って、スーパーマルエツの方に進みます。
マンションとマンションの間に狭路を発見、ここが中道方面への分岐のようです。

支流の上を歩く
 
さらに、幸町一丁目の交差点方面に進み、大塚屋商店の裏あたり、千手堂に向かって流れていく分岐点はここのようです。
千手堂方面にまっすぐ進み、そこから尾崎水車跡に向かいました。
今は、西原ふれあい第三公園となっています。この日は猛暑、ここは木陰もありちょっと一息。志木二小、二中の正門の坂を上がったところです。
ここでは、大野進さんの水車や滝の絵を見ながら説明を聞きました。ここを下りて幸町と館の境界線である斜面林に沿って歩きました。ここには、背戸(せど)の湧水と言われる湧き水があります。
志木市内の湧水は、ここと田子山富士の裏にしかありません。

背戸の湧水
 
踏切を渡り神明神社、ここに神明水車がありました。
ユリノキ通りを突っ切って、さらに用水跡を探しながら進みます。坂下橋の交差点のそばに、坂下水車がありました。

坂下水車跡です
 
舘氷川神社に向かい、そこの用水跡も確認して最終地点の大塚地蔵を目指しました。
地蔵尊水車は、説明者の祖父が水車を営業していたという地域に根ざした話でした。昔は、水車が人々の生活と密着していたことがよくわかりました。
今回前回と野火止用水の痕跡をたどりましたが、狭い道・暗渠・道路沿いの側溝など、もしかしたら用水の跡かもしれないという所が市内にはたくさんあることがわかりました。散歩がてら、郷土の歴史にふれてみてください。
次回は、舞台を宗岡地区に移し利水と治水がテーマです。

[報告/写真=吉田善二]
 
 

令和4年 6月26日(日)
◆お宝発見講座 ①◆
野火止用水の支流と水車(大原地区)

今回は夏の日ざしを感じる中、水分補給を心がけてふだん通らない路を探検隊のように踏査いたしました。
集合の志木駅南口から、まずは朝霞市三原の「野火止用水堀跡記念碑」に向かいました。
民家の中を流れて
民家の中を流れて
 
用水の跡をたどっていきます。細い道、下が暗渠(ふさがれた水路)になっている所は可能性大です。
境久保の水車跡に戻り、用水が東上線を潜っていた所は今、歩行者・自転車用のトンネルになっています。村山クリニックの所です。
鉄道を横切って
鉄道を横切って
 
ここでは新井康一様撮影の昭和20年代の写真が提示されました。
なんと、カラー写真です。
東上線を越えた野火止用水は慶應志木高校の校地内に入ります。今回はコロナのため校内に入ることはできませんでした。
正門のところで、野火止用水の流路について説明があり、坂を下り右折、志木ガーデンヒルズとの間に来ました。
このあたりに、慶應の校地から滝のように落ちる水勢を利用した山崎水車があったそうです。
ちょうど、在住の方よりお話を伺うことができました。
「当時慶應は農業高校で牧場があって、牛乳をわけてもらったこともある。滝のあたりは夏になると一面ホタルが飛び交いきれいだった。
その後、合成洗剤が使われるようになり滝壺は泡まみれになってホタルもいなくなってしまった。
なんとか自然を残さなければならないと、志木ガーデンヒルズが建築される時に施工者や志木市に働きかけた。
その結果、ぽんぽこ公園ができるなど一部だが自然を残すことができた」
と、貴重な話を聞くことができました。
ぽんぽこ公園
ぽんぽこ公園
 
ここから、志木の大原地区を突っ切り、やつじ地区と朝霞の大山地区の境を進みます。
新河岸川に至る最後は、道なき道を行く感じでした。実際に野火止用水が新河岸川に流れ込んだところは志木市と朝霞市の境界あたりですが、今回はそこで解散となりました。
参加者からは、「知らないことがたくさんあった」と好評でした。
次回は、幸町・柏町方面の支流を歩きます。

[報告=高橋豊/写真=吉田善二]
 
 

令和4年 5月27日(金)
◆志木のまちご案内◆
埋蔵文化財保管センターと発掘現場の見学

  発掘現場の見学ということで、たくさんの方の応募をいただきました。
当日は雨で、残念ながら現場には行けなかったのですが、埋蔵文化財保管センターをたっぷり満喫していただきました。 
前半・後半に分かれ、さらに2グループに分かれました。
1つのグループは、まず常設展を見学です。旧石器時代から、縄文、弥生、古墳時代と順に見ていきました。
縄文時代の顔面と思える部分のある土器や弥生時代の動物型土製品、市内最古のお金富寿神宝(ふじゅしんぽう)などの実物に目を見はりました。
もう一つのグループは、今回見学する予定だった現地からの遺物を見ながら、話を聞きました。
志木三小の校門前あたりなので、住居跡の他に柏の城の堀の跡と思える4メートルほどの溝が発見されたことや中世の板碑が発見されたこと。いなげやのそばの中野遺跡では、仏具と思える須恵器が発見されたことなど説明がありました。
現場に行けなくて本当に残念でしたが、内容の濃い解説でした。
紙芝居
常設展の見学
 
紙芝居
中世の板碑
 
宝幢寺の梅
今回出土した土器
 

[報告=高橋豊/写真=吉田善二]